スイング・ジャーナル誌が主催する第6回(1972年度) ディスク大賞の金賞に選ばれたのがチック・コリアの「リターン・トウ・フォーエ ヴァー」。当時このスイング・ジャーナルを購読していた私はこの金賞に誘われてこのレコードを買った。 |
●CDの表と裏 |
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●由井正一さんの解説 |
●解説部だけテキスト化して見ました。 |
今やジャズ・レコード史上の古典に数えられるチック・コリアの「リターン・トウ・フォーエ ヴァー」には、さまざまな思い出がある。 チック・コリアの初来日は、1968年5月、スタン・ゲッツのピアニストとしてであったが、その時のコンサート評で僕は彼のピアノのすばらしさを賞めたたえたことを覚えている。 ブレイキーの口から出たプェルト・リコの出身というのが嘘だとわかったのは、72年7月22日(土)夜、「ネム・ジャズ・イン」出演のため、ソロ・ピアニストとして来日した時であった。そのころ僕はこの催しの司会者だった。 「生まれはマサチューセッツ州チェルシー。父アルマンド・ジョン・コリアはシシリー島の出身で、母は南イタリー。父は1930年代12人編成のディキシー・グループをひきいたトランペット奏者でベースも堪能でした」というようなことを彼は語った。するとイタリー系ということになる。ラテン音楽に対する彼のアフィニティは、当然のことと、いえるわけだ。 チック・コリアのソロ・ステージは豪雨の中でおこなわれた。ズブ濡れとなりながらも聴衆は動こうとせず、彼の美しいタッチに耳を傾けた。曲目は即興で演じられた《雨と蛙たち》を除いてすべて「ピアノ・インプロヴィゼーションvol.1」に収められていた〈ヌーン・ソング〉くソング・オブ・ザ・ウィンド〉、〈サムタイム・アゴー〉が演奏され、そのあと、コリア=ナベサダのデュオで〈クリスタル・サイレンス〉、コリア=鈴木良雄=日野元彦のデュオで〈サマー・ナイト〉、くマトリックス〉、さらにカルテットで〈500マイルズ・ハイ〉が演奏された。豪雨の中で身じろぎもせずきき入る聴衆の姿は感動的だったが、それ以上にチックは深い感動をうけたようだ。 この時点で「リターン・トウ・フォーエヴアー」はまだ発売されていなかった。日本盤が出たのはそれから1か月あまり後の9月であったが、私は解説執筆者として既に聴いていた。 雑誌「ステレオ」の依頼で、チックをインタビューした時、チックが「リターン・トウ・フォーエヴァー」を聴いた感想を求めたので私は概略次のように答えたことを覚えている。 1940年代なかば、ビ・パップがやかましく演奏された時代は、戦後の混乱期にあたっていた。やがてパップ・イディオムを用いながら、当時の言葉でクール・ジャズとよばれたポスト・バッ.プともいうべき動向が現われた。パップが変形してクールになったのではなく、パップ・イディオムをクールに演奏しようという努力がなされたわけであった。おなじことが60年代のフリーから70年代のポスト・フリーについてもいえると思う。 だいたい以上のようなことを述べたのに対して、コリアはうなずきながら、「一般の人はフリーというと、全く解放されて騒音というかケイオス(カオス)というか滅茶苦茶なことをやるように誤解しているが、私はフリーという言葉は、美しきものへの選択、美しきものへの追求を目的としていると解釈している。 1972年9月、ポリドールから発売されたECM盤「リターン・トウ・フォーエヴァー」は、フリー ・ジャズの騒音にいささかうんざりしていたジャ ズの聴衆に圧倒的な好評を以って迎えられた。 データは、次のようなものである。 スイング・ジャーナル誌の第6回(1972年度) ディスク大賞では、「リターン・トウ・フォーエ ヴァー」が金賞、「チック・コリア・ソロ(ビア ノ・インプロヴィゼーション)vol.1」が銀賞、 さらには「ジョー・ファレル/アウト・バック」 (CTI)が最優秀録音賞にえらばれ、まさにリ ターン・トウ・フオーエヴァー一色といえる景観 を呈した。ちょうど授賞式当日、来日中であった リターン・トウ・フォーエヴァーの一行がホテル、 ニューオータニの会場に現われ、万雷の柏手を以っ て迎えられたのであった。 このオリジナル・メンバーによるリターン・トウ・ ・フォーエヴァーが来日したのぱ、73年1月はじめのことで、どうした訳か、記者会見も、オープ ニング・コンサートも、同時来日のビル・エヴァ ンス・トリオ(エヴァンス、エディ・ゴメス、マー ティ・モレル)とかちあった。 記者会見で忘れられないのは、僕が当時売り出 し中のブラジル人パーカッショニスト、アイアー ト・モレラのAirtoの発音をきいた時、彼は自分の眼と耳とつまさきを順次指さしでEye、Ear、Toe、と答えたことだ。その後ブラジル関係の音楽家から「それは外国人相手に彼がおどけてみせたのだ」という説がおこり、「アイルトが正しい」といわれた。 この第一回の来日の時、僕は早くも第二作「ライト・アズ・ア・フェザー」のテープをきいていた。同じメンバーで、まさに「リターン・ツゥ・フォーエヴァー」の続篇といった感じだが、グループはECMの手を離れ、フオーエヴァー・アンリミテッド・プロダクションを設立し、ポリドール、インターナショナルと専属契約を結んでいた。 だから一行にはプロダクション側から、作詞家の ネヴィル・ポッター、ロード・マネージャーとし てその夫人とおぼしきレスリー・ウィンなる女性 も同行していた。 チック・コリアはその著「ぼくの音楽 ぼくの宇宙」(木島始訳、晶文社)のなかで記している。 「リターン・トウ・フオーエヴァーは、とてもはっきりと意識してもくろまれた音楽の計画だった。(中略)このころだよ、ぼくらが最初のリターン・トウ・フオーエヴァーでとてもすてきな日本公演をしたのは(中略)ぱくはもう、じぶんの音楽に、他人の影響をそれほど感じなかった。じぶんの創造している音楽が何なのか、ぼくはわかったみたいな感じがしたのだ」 サークルというフリー・グループを持っていたころ、チック・コリアの表情はけわしかった。国境の長いトンネルを抜けて雪国に入ったさわやかさが、たしかにこのアルバムから感じられる。このアルバムの日本でのすばらしい評価が、チック ・コリアに笑顔と自信を与えたのであった。 |
【解説:油井正一】 |
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2008年12月15日月曜日
ジャズの名盤「リターン・トウ・フォーエヴアー/チック・コリア」
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