若い頃のブーニンを聴きたかったら、これがお薦め。1986年日本に旋風を巻き起こしたブーニンの東京コンサートライヴ。CDジャーナルのデータベースによると「強靭なタッチを生かして,2曲の協奏曲を堂々と弾きまくっているという感じの演奏であり,時に粗削りだが,彼の若い個性がほとばしっている。ピアノの音が特に鮮明に捉えられた録音。」とある他はスピードと軽快さを感じます。 |
※購入ガイド |
・このCDをAmazonで調べて見ると、新品は売っていなく中古が数点出品されていました。 他のサイトでも同様だったので、中古市場で手に入れるしかないようです。 |
・Yahoo!オークションで調べるには次をクリックして見て下さい。出品されていればそのページが表示されます。私が調べた時はLP,CD,VHDが数点出品されていました。 ブーニン 東京コンサートライヴ |
※CD(JVC VDC-1151)の解説文 |
◆おそるべき個性派の大ピアニストに成長することを予感させたコンサート 演奏自体も実に興味深かった。ブーニンの技術が圧倒的に優れていることはすでに分かっていたが、そのピアノは決してテクニックをひけらかすものではなく、即興的な感情の表出を主体としたものであった。いわゆる誠実な優等生タイプではなく、むしろその逆であった。彼は技術上のミスを少しも気にせず、自分か感じたままの独自の音楽を奏でていったのである。 僕がブーニンを気に入ったのはまさにこの点であり、こういう個性派のピアニストがコンクールに優勝したことも嬉しかった。彼は時に雑な感じを与えるほど、瓢々と2曲のコンチェルトを弾いた。テンポも全体としては速く、感覚はフレッシュだが、彼の描き出す音楽は草書体で、モーツァルトでは、特にルバートが多く、聴衆のことなど気にせず遊んでいる趣がある。もちろんまだ19歳の青年であってみれば芸術としては未完成であるが、このまますくすくと育っていけば、将来はおそるべき個性派の大ピアニストに成長するであろう。 モーツァルト、ショパンと並べると、一般の評価が高かったのは後者であるが、僕自身は「K.488」がたまらなく好きだ。この演奏が誰にいちばん似ているか、といえばそれはハイドシェックであり、ブーニンのモーツァルトがいかに自由奔放であったかが想像されよう。 第1楽章ではテーマの2小節目にすでに即興的なディミヌエンドが与えられる。 基本テンポは速めで、何でもなく弾きつつも強弱のニュアンスが豊富であり、古典の約束に少しもこだわらない。第2主題の手前では左手を大いに弾ませ、休符で長い間を空け、テーマはテンポを落とし、漸強弱の表情をつけて歌わせてゆく。現代には珍しいスタイルであり、再現部では途中でさらにリタルダンドが掛かる。そしてオーケストラが加わって第2主題を反復し、その伴奏にまわるあたりから元のテンポに戻してゆくが、本来なら主題が終わる114小節からア・テンポにするのが普通だから、これまた古典形式を崩した即興性の発露といえよう。 展開部における、ドビュッシーのように感覚的なピアニッシモや透明なピアニズムも美しく、再現部では部分的に右手よりも左手の方を強め、カデンツァではかなりドラマティックな波立ちを見せるなど、ブーニンがいかにのびのびと、形にはめられないで育てられたかが察せられるのである。 第2楽章は正反対の遅いテンポだ。 ずいぶん思いをこめた、なよなよとした主題の弾き方である。オーケストラとの協演になっても、その気分の動き、エコーや装飾音のつけ方、情緒的な歌わせ方が自由で、モーツァルトの格調など少しも考えておらず、主題の再現ではロマンティックなルバートさえ現れる。それは形だけを見れば19世紀風といえるが、聴いていて決して古くさくないのは、センスがナイーヴで、余分なものがくっついていない、生地のままの音楽だからであろう。 フィナーレはすごいスピードだ。テクニックのありあまる19歳の青年ブーニンであってみれば当然ともいえようが、その実、速いテンポの中で、遊び抜いているのである。最初のロンド主題をオケに受け渡すときのディミヌエンドにすでにその片鱗が示されるが、それから先は即興的な表情が愉しくてたまらない。強弱のニュアンスの妙、生きて弾むリズム、こぽれるようなデリカシー、それらすべてが愉悦の極みだ。 ここではモーツァルトの音楽は常に微笑んでおり、コーダの直前にはおどろくほどのアッチェレランドが現れて全曲を結ぶ。まだ未完成の気分的なモーツァルトだが、その自由自在な弾き方はまことにチャーミング!「K.488」を語る上で、忘れることの出来ない演奏の登場といえよう。 一方のショパンはモーツァルトほど個性的ではない。 それだけに多くの人々にスムーズに受け取られるであろう。僕など、たとえばフィナーレあたり、もっと自由なテンポや表情がほしい気がするし、第2楽章も初めのうち、明るすぎ、健康的にすぎるように思う。モーツァルトがあれだけ弾けるブーニンならば、さらに出来るはずであるが、それでも第1楽章全体や、第2楽章の後半はブーニンを堪能させるに充分だ。 最初の楽章、ブーニンの気迫はすばらしい。鍵盤を叩きつけるような夢中になった開始で、雑な感じがするくらい即興的だが、これこそ彼の良さなのだ。つづく甘美なメロディーの歌わせ方は、モーツァルトの場合と違って明るく健康的であり、第2楽章や第3楽章のテーマ同様、今一つの影もほしい気がするが、音楽が進むにつれて、タッチの明暗は自在となり、時には神秘的・幻想的な変化を見せ、前進するエネルギーの勢いや、ブリリアントのかぎりをつくすテクニックの凄まじさ、光のような燦き、何のためらいもない、腕が鳴る最強音の威力などとともに、良い意味で傍若無人の感がある。 にも拘らずわれわれは、それらすべてを受け入れられる。なぜならばブーニンの場合、形にはまらぬ自然な才能の湧出だから、理屈なしに耳と心に飛びこんできてしまうのであろう。 第2楽章の後半も随所で節回しが光っており、楽譜にはクレッシェンドの指定が書かれているのに、ピアニッシモで音を曇らせるなど、その才能の閃きは疑いがない。 曲目ノートモーツァルトピアノ協奏曲第23番イ長調K.488 1786年、歌劇「フィガロの結婚」や交響曲第38番「プラハ」と並んで作曲された「K.488」は、モーツァルトの魔法と魅惑を絆として編まれた三部作であり、徴先に包まれた紅色のニュアンスが溢れ出るところ、音楽を聴く歓びここに極まる感が深い。愉しく気楽な第1楽章を“前奏曲"と見れば、第2楽章の“秋の想い"も、フィナーレの¨魔法の泉"も、それぞれが第22番(K.482)、第27番(K.595)に匹敵するモーツァルトのベストといえよう。第1楽章アレグロイ長調4分の4拍子。協奏風ソナタ形式。 華やかで親しみやすく、聴衆に明るく語りかける魅力的な音楽。第2楽章アダージョ嬰へ短調8分の6拍子。三部形式。 すばらしいアダージョである。哀しみの心が痛切な和音を伴って胸を刺すが、なおかつ最大限の痛ましさが音楽美を逸脱することなく、聴く者を酔わせてくれる。 第3楽章アレグロ・アッサイイ長調2分の2拍子。ロンド形式。 AI-A2-BI-B2-AI-CI-C2-A2-BI-B2-AI-B2-コーダ、というように、主要主題、副主題、中間主題とも、それぞれが二つずつ対になった複雑なロンドで、A1の三現、A2の四現を欠き、コーダの前にB2が突然ニ長調で顔を出す。まさに即興演奏によって生まれたような曲であり、聴く者はモーツァルトに誘われて遠く神秘の国をさまようのだが、ほとんど1小節ごとに変わる曲想に、どこへ導かれるのかまったく分からない。 そして簡単な音階をかけ上がり、かけ下りてくるB2こそ、終楽章の魔法の鍵を握るもので、こんな不思議な美しさはモーツァルトにおいてさえ珍しいのではあるまいか。ショパンピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11 1830年、20歳のショパンがパリに旅立つ前に祖国ポーランドで作曲したもので、初期の作品だけに深昧には乏しく、オーケストラ・パートにも彼の欠点が見られるが、美しい旋律とピアノ独奏の華麗な動きはショパンならではといえよう。 第1楽章アレグロ・マエストーソホ短調4分の3拍子。協奏風ソナタ形式。 ピアノの華やかな技巧が存分に発揮される中を、青春の愛の哀しみのような、あるいは甘い愛のため息を思わせる主題が歌われてゆく。第2楽章ロマンツェ:ラルゲットホ長調4分の4拍子。自由な三部形式。 ショパン自身が「美しいい春の月明りの夜のような……」と書いたノクターン風の緩徐楽章である。第3楽章ロンド:ヴィヴアーチェホ長調4分の2拍子。ロンド風ソナタ形式。 前楽章から休むことなく入る典雅なフィナーレであり、まとまりの良さでは全曲のベストだ。 |
〔宇野功芳〕 |
2008年12月18日木曜日
ブーニン●東京コンサート・ライヴ---外山雄三指揮/NHK交響楽団
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿